Day12.hate

「嫌う」という行為自体が嫌いだ。人でも動物でも植物でも、嫌われた側は存在を否定されているわけだから、もう嫌った側の人の目の前からは消えるしかない。その人が生きている世界の中に、嫌われたそれは生きていけないし、きっと生きていてはいけない。

「好きではない」だとか、「苦手」だとか、「嫌い」を避ける日本語はある。それと同じように英語にも。言葉に対するイメージは人それぞれだから、私が見ている世界に限った場合の話ではあるが。

ある対象について、心の中で無意識に考え、そして頭で考えて、選んだ言葉を口から発する場合、「考えて発した言葉」が「嫌い」だったと想像すると、これほど悲しいものはないだろう。

私は嫌われたことがない、と思う。ただ、とても好かれたことがある、というわけでもない。「嫌い」を恐れていた私は、良い子になろうと努力して、そして良い子になった(良い子になりすぎるのも危険なため、時折失敗をしたり、反抗して見せたりと、良い子としての節度を守った)。

しかし、私は一つ勘違いをしていた。結局は、「好かれたい」はずなのに、その手前にある「嫌われたくない」だけに注目してしまっていて、本当の「好き」を知らないまま大人になった。良い子であり続ける必要がなくなった今、ある程度なら嫌われることも耐える(あの人は私の人生に関係ないと強く思い込む)ことができるし、私にも何人か嫌いな人が出来てしまった(これは本当に悲しいことだけど、嫌いにならざるを得なかった)。

視界に捉えた、あるいは、頭に思い浮かべたあらゆる何かを、私たちは「好き」か「嫌い」かのどちらかに分類している。「どちらでもない」というのは実はなくて、そういう風に思う対象は、おそらく自分に害のないもの、自分が興味の有無を考えたことがなかっただけのものであると私は思う。つまり、「嫌い」ではないので、「好き」に分類されると私は定義している。あらゆる何かとちゃんと向き合って見ると、意外なことに、さっき乗っていた車も、さっき飲んでいた水も、今座っている椅子も、今眺めている景色も、今度会う予定の人も、今後会う予定の人も、いつも使っているペンも、もう失くしてしまったペンも、身の回りはあらゆる「好き」で構成されている。

私はそれに気がつくのが遅かった。